我が家の古いネガの中に、ブローニー版のネガがあります。
これは昭和36年、私が小学●年の時に、初めて父に買って貰った~実際は弟・母・祖母と共用でした~フジペットEEで撮ったものなのです(このうちの何枚かはすでにこのブログで御紹介しています)。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、子供・初心者向けとしてヒットしたフジペットの改良モデルでした。
フジペット昔写真・その1
このカメラ、実際に使ってみると露出やシャッターの扱いなど、子供には些か手強い(!)高級機でしたね。でも、まずは小手調べと、いつも父にくっついて汽車電車を見に行っていた、田端・尾久界隈で撮影しました。
予めお断りいたしますが、フレーミング失敗や露出不足・ブレなど、撮影者がガキ(小学生)であるゆえ、ミスだらけの写真です。怒らないで見てやってくださいませ。
(2)田端大橋~(1)に見えている陸橋です~の上から貨物駅とハンプを見ています。新鶴見や大宮ほど大規模なものではないですが、ハンプがあったのです。物流の主役が鉄道だった頃の懐かしい光景、とでも言いたいところですが、何も知らない鉄道ガキは<何やってるんだか?>と思っていました。今の若い鉄道ファンはハンプ(Hump=英語、漢字で坂埠と書きますがうまい当て字ですね)をご存知ない方もいらっしゃるかも?現在のこの辺りは新幹線の高架やビルが立て込んで、こんな広い空がウソのようです。
(3)田端操車場(田端操駅)の入換え機関車もそろそろ取替えの時期だったようです。見慣れていた9600のずんぐりした姿が徐々に消えていきました。父の話では西側高台の家の洗濯物が煤で汚れる、という苦情が多くなったから、だそうで・・・僕と弟は、この陸橋の上に立ってSLの煙にわざと巻かれて遊ぶのが好きで、何も考えずに喜んでいました
(4)おなじみDD13が登場してきた頃です。新車なのにずいぶん地味な色だな、と子供心に思いましたね。貨物ホームの向こうは町並みが広がっていますが高い建物が殆どありません。冬の晴れた時には筑波山の姿までくっきりと見えたものでした。 SL好きには後のDD51と並んで仇のように憎まれたDD13も、今やとっくに姿を消しました~というより鉄道貨物が様代わりしてしまいましたね。
(5~6)田端機関区と尾久機関区の間には王子街道が通っていて左右に鉄道施設が広がっていました。こちらは田端機関区、当時交流電化後まもない常磐線用のEF80が多く配置されていたようです。職員の方も今と違ってのんびりしたものでした。入換え用D51の姿も見かけました。 (失敗写真その1=先頭部にポールがカブリ、動いてないのに!)
(7)王子街道の踏み切りで、DD13の廻送風景です。これは1歳下の弟の撮影でしたが、小学生の写真としてはなかなか良いですね。職員のポーズなどヤラセかと思うくらいです(笑)。
(8)踏切を過ぎて少し王子方に歩くと、右手に尾久機関区のターンテーブルと扇形庫が見えてきます。古枕木の柵越しに様々な機関車を見る事が出来ました。 ナンバーが読み取れませんが(失敗写真その2?)C58ですよね?(違ってたらすみません)
→やはり間違っていました(笑)C57だそうです。Soda様のご指摘により訂正いたしました。
此処では様々なSLを見ましたが、父と私の興味はあくまでデンキものだったのです。
(9~10)尾久駅近くの東北本線です。小さな工場が並ぶ町並みを築堤が貫いていました。165系と181系は当時の新鋭車両でした。急行『なすの』特急『とき=きちんと見えませんが』~客車列車が主力だった上野駅に電車が増えだした頃ですね。 (失敗写真その3=肝心のヘッドサインが見えません)石垣の横に駐車しているのは当時のベストセラースバル360ですね。電車にくらべてもあまりにも小さい!
(11)今も昔も都内の駅としては地味な存在の尾久、当然ながら優等列車は通過です。キハ82のヘッドサインはどうやっても読めません、お面がポールの間に収まってるのは単なる偶然でしょう。『白鳥』か『つばさ』か? 駅の左は尾久客車区(現在の尾久車両センター)が広がっていましたが、キハ82の隣は懐かしのスハネ30。
(11)どうしようもない露出不足!(失敗写真その4)尾久客車区の洗浄線。『はつかり』のキハ81の姿があったのでシャッターを切りました、冬の時期だと3時過ぎには早くも撮影不能だった記憶があります。
というわけで、地元での習作(!)フジペット写真でございました。
この記事へのコメント
gardenwalker
貴重なお宝画像ですね~♪♪
ブルドッグは私の記憶ではくろしおで活躍していました
Cedar
Soda
やまびこ3
ブルドッグのキハ81は「いなほ」の時代に見た記憶があります。
DD13の初期車輌(1灯の車輌)は見たことないです。
下町の空はこんなに広かったんですね。
む〜さん
フジペット・・・・懐かしいカメラですね~。レンズが接着剤でとめられていた様で、ショックで取れちゃったりしました。修理はせず新品交換だった様な記憶もありますが、なにしろ50年も昔の事です。
フジペット35ってのもありました。小西六のコニレットとともに記憶に残るカメラです。
田端の可愛らしい坂阜、もうこれが坂阜なんて言えないのではないか?と言うような、ささやかなのがありました。上中里のホームの真ん前にもあった様な気もします。蒸気機関車での突放も、見ていて面白かったけど、ハンプも見ていて面白かったですね。新鶴見の様な高低差の大きい複線ではなく、カーリターダもないけれど、健気な親孝行くんって感じで好感持てましたっけ・・・・。
DD13は、写真にあるような、1ライト、イコライザ付き台車を履いたのが好きでした。
manamana
動力近代化なんて言葉が思い浮かびます。
特急電車のヘッドマークは残念ですが、
そういえば竹(?)のはしごを線路際でよく見かけたものですね。
しおつ
その変化に驚きます。
写真の隅から隅まで興味深いです。
Cedar
さすがSLのキャリア豊富な方のアドヴァイス!てかそんなことも知らないほどSLには疎い私です(笑)。こういう鉄道の町も今は様代わり、外からおいそれと覗くことも出来ません。
■やまびこ3様
ガキの粗雑な写真でも、時が立つと思わぬ資料的価値が出てきたということでしょうか?
そうでしたね。キハ81は<つばさ>ではなく、<いなほ>に使われていました。下町に限らず、東京の空は広かったですね。
■む~さん様
田端のハンプはおっしゃるように上中里にもありました。DD13はアメリカの入換え機みたいでかっこよかったですね。アメリカのレイアウトの写真を観ると、英文レタリング入りのDD13が写っていたのを見た事があります。
■manamana様
ここに写っている車輌の全てが今では廃車・博物館入りですから時代は変わったものです。この辺りも今や随分変貌していることでしょうね。
■しおつ様
現在も新幹線はじめ、色々な鉄道車輌が見られる場所です。この近くの沿線のビジネスホテルが鉄ビューの部屋を売り物にしているとか・・・
何しろピンボケ写真でディティールがよく見えずに申しわけありません。
line
いゃー感激モノの写真ばかりですね。見入ってしまいました。
私が最初に使ったカメラは確かオリンパスペンEEだったと思います。まだレンズ性能もイマイチでしたから、周辺部はみんな流れたようになってました。
私も小学生の頃から撮ってたんですが少し後のようで、東京近辺は無煙化されており蒸気を見る機会は無かったですね。キハ81は「いなほ」「ひたち」が何とか撮れた頃かな。キハ82だと「やまばと」もありましたね。
今後とも宜しくお願いします。
Cedar
ご訪問ありがとうございます。<いなほ><ひたち>の時代に小学生とは、だいぶお若い(汗)・・・。でも趣味に年齢・性別(こちらは鉄の場合、やや関係ありますか?)は関係ありませんので、何卒宜しくおねがいいたします。
Cedar
nice!ありがとうございます。
FTドルフィン
これはスッゴイ貴重なお写真ですね。
僕はこの3年後に産まれました(笑
過去の記事も貴重なお写真ばかりですね
じっくり拝見させて頂きます!
Cedar
ご訪問ありがとうございます。新しい鉄道の写真の撮り方が解らず(笑)過去の写真でお茶を濁している状態ですので貴兄の写真に刺激されております。
尚爺
フジペットEE思い出しました。半世紀前の話ですね。
Cedar
私もフジペットのあとはペンタックスにを使っていましたよ。
フジペットのボディは10年くらい前まで実家に有ったのですが、今はどうなっているやら。
荒川遊園地のフクロウ
母の実家が尾久にあったので、夜などはよく入れ替え機(すでにDD13)のエンジンのうなりに続いてガチャガチャガチャガチャという自連の連続音が聞こえたものでした
(1)の写真に写っていますが、田端大橋の道が90度曲がって田端新町のほうに行く角の飲食店(立ち飲み?)が当時から妙な雰囲気を出していました
尾久駅前の明治通りは103・104系統のトロバスでしたね
祖母が「あのトロリーバスはできたと思ったらすぐになくなってしまった」といっていたのを思い出します
Cedar様の貴重な記録にトロバスがあれば是非拝見したいものです
Soda
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-1680.html
Cedar
素敵なネームですねえ!ご訪問ありがとうございます。色々な共通体験がありそうなのは(1)の画像の例の飲み屋に着目してらっしゃることからもわかります(笑)・・・トロリーバスの画像・・・まともなのはないかも知れません、申し訳ありません。
最後になりましたが、今後とも何卒よろしくおねがいいたします。
■Soda様
このサイトはすごいですな!国鉄は線路が豊富にあって何がなにやらよく分からないですが、各々の線路にキチンと役割があるんですね~(当たり前か・・・)王子街道の連絡線や上野からの回送線、常磐線日暮里から田端得の連絡線(単線でした)なんてのもありましたね。
素人写真
私も昔の鉄道写真を多数持っていたのですが、あるとき、気の迷いから、友人の子どもに全部あげてしまいました。
国鉄の指定席硬券もたくさんあったのですが、今考えると、ちょっと惜しい気がします。
あおたけ
でも、SLとEL・DLが共存し、東北本線を優等列車が往来していた
この時代がいちばん華やかだったのかもしれないですね。
いつもながら貴重なお写真を拝見させていただき、
ありがとうございます。
Cedar
謙遜のネームとは裏腹な鋭いお写真!拝見いたしました。
ご訪問とコメントありがとうございます。昔の写真は思わぬものが写っていて楽しめます。これからも何卒l宜しくお願いいたします。
■あおたけ様
記念すべきnice!1000目をいただき、ありがとうございます!なにか記念品をといいたいところですが、それもならず(笑)・・・もう一度お礼を申し上げます。
今後とも写真発掘につとめますので、宜しくおねがいいたします。
亜紀書房・足立と申します
天宮清
最初の写真の左手のほうに3つ並ぶ屋根の左端が私の自宅のように思えますが。また母親が田端の鋲無し鉄橋から筑波山が見えた、といっていたのが、このブログにも書いてあり、50年目にしてようやく二人目の証人と出会った感じです。何故かと言いますと、1944年の夏、私が生まれる3か月前、母親はこの陸橋から筑波山を背景に空から降下する発光体を目撃したからです。私はその胎内目撃が原因で、UFO研究家になってしまいました。
Cedar
1枚の写真からのエピソード、大変興味深く拝読しました。
当時は柵など未整備で、それが当たり前で線路内に入ってしまう子供もいたのですね。
筑波山は駒込病院の前にあった我が家の物干し台からも見えました。
発光体は見てませんが!
風旅記
東京の街がまだ平べったくて、今の高くへ伸びていく様子とは言葉通りの隔世の感を抱きます。走る列車も街も鉄道施設の風景も全くの別物のように変わりながら、そこに線路があることだけは変わらないのが、また面白いですし、鉄道の時間軸の長さを感じさせます。
田端から尾久にかけての鉄道の要衝としての存在感は、時代を超えて変わらないのですね。それもまた、鉄道を見続けることの楽しさのように思います。
貴重なお写真、楽しく拝見させて頂きました。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
Cedar
しばらくです。いつも古い記事にコメントいただきありがとうございます。
先日もこの辺歩きましたが、新幹線の基地以外はずいぶん縮小されてしまいました。鉄道の要衝というのは変わってないのですが・・・・